絶対的な『正義』は、最凶の『悪』を生む

 

強い意志を持っている人は、多くの人に影響を与えることが出来る。

しかし、その意思があまりにも強力過ぎると、他を喰いつぶす凄まじい悪行となってしまう。

 

そもそも、正義だ、悪だのという考え自体、

見方によって、180度変わるわけで。

 

正義か悪かの判断基準は、それを思考する人間が生まれ育った環境に左右されるところが大きいんですけど、

そこに正義と悪という考えに対立が生まれると、それが争いの源になってしまうのです。

 

歴史を見ても、正義を掲げて、悪行を行い続けた例は多いですし、

第二次世界大戦時でも、枢軸国のドイツ側が勝利していたら、

ゲルマン民族最強が正義で、ユダヤ人は悪という差別が、さも当然になっていたかもしれないですしね。

 

日本も戦勝国になっていたとしたら、”世界トップクラスの核国家”になっている可能性さえもあります。

 

何が、正義か。

何が、か。

 

この問いは、映画や創作物では、有史以前から何度も言われてきたものだと思います。

 

この問いに関しての回答は、それを行う人の視点や見方を踏まえて、最終的には全て、

正義か悪かを判断する人自身の中で決定される

 

こととなります。

 

その点で、多くの今を生きる人々は、自分の持つ正義という価値基準と、悪と考える境界線に従って、判断を行っています。

 

その基準は、

一種の自己信条(Personal Creed)

 

ともいえるモノであり、

己自身の中にある正義と悪の区別を自分の信じる考えに従って、判断をしている

と言えます。

 

この自己信条(Personal Creed)において、

正義とは、己の崇拝する美徳や義のある行いとされるケースが多く、

悪とは、己の嫌悪する行動や思考とされる場合が多いです。

 

一般の人たちは、この自己信条(Personal Creed)に基ずいて、正義か悪かの判断を行い、日々を過ごしているのです。

 

しかし、この正義と悪を区別する自己信条(Personal Creed)が、尋常でなく強くなり、正義という考え方が異常に強固になった時、それは

最狂のの誕生

 

でもあると言えます。

 

なぜならば、その自己信条(Personal Creed)に従い、己が正しいと信じる美徳としての正義を成す人は、罪や罰の意識が全くないからです。

 

宗教戦争とかもこれで、神という美しい絶対者の正義のために、人を殺すという、作られた正義という名の『大義名分』は、人間が持つ罪悪感を極限まで無くすことが出来るんですよ。

この場合の正義は、悪酒のアルコールのようなもの。

 

正義という名のもとに、思考を酔わせて、シラフ(正常時)に感じる罪悪感を薄めている。

 

絶対的な正義というものは、さらに始末が悪く、もはやこれは麻薬の類です。

 

正義という考えのもとに、自分が行うことをすべて正当化できるので、一般的な悪いことに対するマインドのブロックが全くありません。

自分のやること、成すこと、行うことは全て素晴らしいこと

 

という脳内変換がなされるので、どのようなことも美しい正義になります。

 

これは、一度ハマると抜け出すことが出来ない

凄まじい麻薬

 

です。

 

絶対的な正義をもとに行動する人のことを、麻薬に酔っている状態と言えば、言い得て妙ですが、しっくりきます。

 

ただし、

世の中を動かせる奇人変人というのは、

すべからく自分の中の美徳と正義の自己信条に素直な酔っ払い

 

なのも事実。

 

ある種、この酔っ払いたちがいたおかげで、世の中は回っているといってもいい。

だからこそ、

酒は飲んでも飲まれるな。